週刊ネコ通信

日記とか備忘録とか。

2019_11_07

1.

iPhone→イヤホンプラグの変換端子がどこかに行ってしまい、わざわざ買うほどでもないよな…とか思っていたら数年経ってしまい、すっかり出先で音楽を聴かない生活に慣れてしまっていた(どうもBluetoothイヤホンには抵抗がある)。

そんな折部屋の片付けをしていたら随分前に買ったiPhoneのケースが出て来てしかも周辺機器がそっくり未使用で入っていたので物凄く嬉しくなってしまった。金額にしたら些細なものなんだけど棚からぼた餅の言葉通り不意に僅かに幸せになると結構かなり嬉しい…

写真を撮っていないが変換プラグがかなりみっちり固定されてて悪い意味でのAppleっぽさを感じた。

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2.

車内でサラダチキンを食べたところタレをこぼす。情けない。泣く子とヤフオクと不意に垂れる汁物には勝てない。

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3.

レコードの日…というのはあまり馴染みがないのだがドコドコ発売されるのでとりあえず買う。佐藤博とか大貫妙子とかだと別に持ってなくても良い気が70%くらいあるが、後から急に欲しくなる可能性を見越して買った。大事に聴きたい。

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また、Tsudio Studio氏のLPも届く。Local Visions直販だったので氏からのコメント入りで嬉しい(かなり書くの大変だったんだろうな…)。何故寿司が張り付いているのか一日中考えていたが「寿司夫」と「ツジオ」の洒落か? と気付いたので自分の中で合点がいった。こちらも大事に聴きたい。

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2019_10_15

1.

台風の対応などで色々大変である。自宅は特に壊れたりだの無くとても安堵しているのだが職場(の周辺)がもろもろアレな感じのうえ、数日経って被害が明らかになるにつれ刻一刻と我々の置かれている状況が悪化していくのが目に見えており気が重い。

自然災害、となるとどうしても平時は持ち合わせていない正義感が心の隅から滲んできてしまい、ニュースを見て激昂することなんてほぼないのにいつも以上にムッとしてしまう。そこで知った顔をして(普段は特に関心なんて無いくせに)災害のさなかに悪態をつくのはどう考えても不健全であると思う。真剣に考えている方々は今は口ではなく手を動かしてるのではないか…と思ってたところ周りのプロの方々も罵ってたりした…のでやっぱり人それぞれだし自分が目くじらを他人に立てることでもないのかな、と少し反省した。でも碌な勉強もせずお気持ちだけで批判するのはポピュリズムそのものだとは思うのだが。

 

かく言う私もにわかに治水に関することがらについて興味が出てきてしまったのでまあいい機会だと思い色々調べていたが国交省地方整備局のサイトに興味深いものが載っていた。

www.kkr.mlit.go.jp

要は市民の方に管轄の河川などを月イチで巡回してもらい、危険な箇所や利用者のマナーなど気付いたことをレポート形式で提出してもらうというもの。大体の方は可もなく不可もない無難な感じ(それでもモニターからの報告書をそのまま掲載しているため、国が出す資料としてはかなりゆるい内容になっている)。

しかし多田さんという方のレポートはずば抜けて面白い、写真の構図もいいし文章も穏やかに文学的で大変な文才を感じます。おそらくですが写真の貼り付け方などを見るに個人でもブログを執筆している方なのではないのかな、と思います。事務的に撮影して文を添えるのではなく、日々の貴重な時間を大事にレポートのために使って頂いているようでなんだか嬉しくなってしまいます。こういうのが読めるとインターネットしている甲斐がある。

とまあこんな感じで皆さんが普段から治水のことを考えているのだなあと頭が下がる思いです。

 

 

2.

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近所の書店が最近音楽系の書籍に力を入れており、ネット上で話題になった本を扱ってくれているので嬉しくなってしまいまとめて購入してしまった(既に購入していたので今回は買わなかったが和boogieもおいてあった)。
ネットで買うのは便利だけど味気ないのも事実なので実店舗で購入できるのはとてもよいと思います。欲しい本がおいてなくて一生懸命店頭で注文票を書いていた中学生の頃を思えば随分時代も変わったし遠いところに来たなと思う。

さてこれだけの分量を消化できるのか(スタン・ゲッツは目に厳しい二段組)……特にディスクガイドは最近何冊も買っておりこんなに必要なのか、と急に冷静になっちゃったりした。所有ディスクガイドで記事2本くらいかけそう。

わりと最近インプット過多の消化不良気味なので無理せずマイペースにのんびりやりたい。

2019年1〜9月によく聴いたMix

2019年1〜9月編です。なぜこんな中途半端な時期にまとめるのか? それはやる気が今出たため…

2018年版はおおよそ半期ごとに書いたのでひまな方はこちらもぜひ。

2018年下半期によく聴いたMix - 週刊ネコ通信

2018年上半期によく聴いたMix - 週刊ネコ通信

 

鶏七味 / Awaking like steam,

個人的2019ベストミックスと言っても過言ではない(ヨイショとかではなくほんとです)。週6回以上再生していた時期もあるくらい…実に中毒性のある内容になっています。

私がアニリミに疎いせいもあるんだろうが楽曲群がどれも新鮮で、Mixも随所にフックがありとにかく良い。future〜juke〜rockを行き来していて飽きない作り、特に22''20〜25''00の流れは是非箱で聴きたい。

がっこうぐらしのOPを破茶滅茶にして原曲必要? みたいなリミックスが含まれているのですが初回聴いたときは車の中で文字通り破顔してしまった。すごい文化や。

ネットギャング周りはよくわからない概念があってちょっと怖いのですがこのMixは怖くないので聴きましょう(記事を書くために聞き直していたら銃声が入ってないことに気が付いたが別に銃声が入っている必要性はなかった…)。

聴き終わったあとに無性に本家jukeを聴きたくなるのも良い。

 

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2019_09_02_「東洋の笑い」とハムスター

Twitterを見てると無意味に近い概念を笑う、というのが結構多くなってきた気がする。特に2コママンガみたいな形式で現れるパターンとか、単語間の意味を破壊する駄洒落に見られるパターンとかがある(具体例を挙げると本気で解説しなきゃいけなくなるので例示しないけど…)。

 

ふと思い出したのが中沢新一の「チベットモーツァルト」の一節である。急に笑い出した禅僧に「東洋の笑い」を見出す話である。

静かな住居を見つけて、飾らぬ心をたのしみ、年中、客を送ることも迎えることもない。あるときは、孤峰頂上にのぼって、雲のうちから顔をだす月に大笑いする。(『祖堂集』)

 薬山のはじけるように明晰な笑いは、ふつう考えられているユーモラスな笑いとはちがう。その笑いは意味に反作用するものでも、無意味にたいしてむけられたものでもない。雲間が晴れ、そこから月が顔を出したということ自体にはなんの表象性も含まれていないし、また表象性がないという事実の「無意味」さを笑うほど、禅者はひねくれていない。薬山和尚が笑っているのはもっと別のことだ。この禅僧は、月が雲間から顔を出すことによって、連続のプロセスに句点が打たれたこと、連続体に切断がとびこんできたこと、ただそれだけのことに身体を揺らせて笑っている。ここにあるような「東洋の笑い」は、空とか無とか無限とか呼ばれているもののほうにたしかに方向づけられているけれど、けっして空や無や無限それじたいから笑いが生じてくるなどということはありえない。空を横切る光がそこに溝や痕跡を刻みこんだとき、無の連続体から「起源における粒子」とも言うべきモナドがとびだしてきたとき、そして無限の多様体に位相的ねじれを加える「点」があらわれたとき、それを無邪気に笑う笑いなのだ。クリステヴァの言う「別の笑い」とは、それゆえ、原エクリチュールの場、意味の構築性の立ち上がるパラドキシカルな起源の場ではじけとぶ、それじたいきわめてパラドキシカルな笑いなのである。

中沢新一チベットモーツァルト講談社学術文庫, pp.62-63)

その後、論旨は上記の感覚は乳児時代から原始的に備わっているということに対する裏付けに進むが要旨はこんな感じ(ひらがなが多いのは中沢の文体なので念のため)。

 

わたしも無意味性を笑うほど寒いことは無いと思っている。インターネットにはそういう人結構いるけど…

拡大解釈すると、句点を変な位置にあえて置く、のが例えば駄洒落の生成だと言い換えることができる。意味を意図的に取り出すことと、無意味にランダムに単語を接続することは、過程において全く異なる行為である。まあ結果的になんか面白くなっちゃってれば関係ないのかもしれないけど、カットして盛り付けして食卓に出すのと、わけのわからないまま既存の概念を(若干の嘲笑も込めて)皿に並べて無造作に放り投げるのはやはり違う。

さらに考えを押し進めると、膨大な楽曲の海の中から完璧に曲をセレクトされると尊敬の念より先に笑いが込み上げてくる感覚にも通じると思う。何とも不思議だが、延々と広がる現実を適切に切断されると面白くなっちゃうのは(こうした感覚を持てていることは)とても幸せなことだと感じる。

そこには解釈が存在する。松屋USENから流れる曲の巡り合わせに何かを受信する人もいれば、それができない人もいる。

 

また「チベットモーツァルト」では、ジュリア・クリステヴァの作品を批評する文脈で次のようなことも書かれている。これ、「駄洒落を生成する前からすでにその恣意的な視点が面白い」という感覚とも一致する(クリステヴァ読んだことないけど…)。

「われわれは意味を笑うのでも無意味を笑うのでもない、われわれが笑うのは意味の構築性であり、ひとが言葉を語ることを可能にしているポジションそのものを笑うのだ」

(同pp.59)

 

ハムスターの或る歌。

2019_08_31でかイオンの話・CDを流しました 他

  • 1. でかイオンの話
  • 2. CDを流しました
  • 3. 他

 

1. でかイオンの話

でかイオンに行った。でかイオンとはでかいイオンのことで、でかイオンの下には中イオン・小イオンしかないので必然的にでかイオンは希少。でか過ぎてカメラには収まらないんだけど自分の目だと収まるので本能的にいつも不思議だなと思う(超広角を使えとかそういう話ではない)。

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2019_08_11

ジョビンの『As Praias Desertas』を坂本龍一、ジャケス・モレレンバウム、パウラ・モレレンバウムが演奏したもの。『無人の浜辺』というタイトルである。ジョビンが最初期に書いた曲らしく、そのためなのか「Tom Jobim」名義でクレジットされていたりする。

坂本龍一は2000年前後にジョビン研究にかなり熱を上げており、その集大成ともいえるのが2001年のアルバム「Casa」である(柳樂光隆氏のブラジル音楽30選でも次点を獲得している名盤)。アルバム1曲目を飾り、また別のライブアルバム「Live in Tokyo 2001」でも1曲目に配置するなど思い入れのある曲のようである。

ジョビン研究とイーノ研究が2000年代前半の坂本の音楽性を決定づけたのは間違いなく、その観点からも非常に興味深く聴ける。これらを完全に消化して00年代後半はAlva Notoとかとのコラボレーションに移行するのも興味深い(話は逸れるが、いわゆる「イーノ・コード」(長三和音の上で完全四度が偶然鳴る和声)って未だに音楽界で十分に咀嚼されて無くて、発展のしがいがあるなあという夢があるよね…)。

 

坂本はジャケス・モレレンバウムとは「1996」の頃からのタッグであり、何かのインタビューで「これほどまで厳しくチェロを弾ける人間は他にいない」といった趣旨のことを話していた気がする。そう、ジャケスは滅茶苦茶チェロが上手い……大変強固なアンサンブルが出来る職人である。そこに着目して演奏を聴くべきである。

 

ごく個人的な話をすると、このアルバムを買ったのは高校生の頃。大多数の人々と同じように、私はenergy flowのような坂本龍一像に若干の熱を上げており(今思い出すと何とも恥ずかしい)、ブックオフ坂本龍一のアルバムがあったことから喜んで買ってみたところ正直よくわからない内容だった(=期待していたサカモトの音とは随分乖離していた)ので戸惑ったことを覚えている。大学生になって聴き直してみたらかなり良かったのでたまに人に薦めたりもしていたが、あんまり反応が無かったのが悲しかったなあ…と思い出すなど。

 

最近ブラジル音楽がにわかに流行っている(気がする)ので色々聴いてみたりするのだが、自分の中ではこの坂本龍一とモレレンバウムのフィルターを通して聞くのが今のところ一番快適だなと思う次第です。

2019_06_29東京

半年ぶりくらいに東京に出向いた。あいにくの雨だった。

 

所用があって上石神井を訪れた。初めて行った。読み方がよくわからない…(かみしゃくじい)って読むんですね…

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「お買い物は 地元」なんでラッコさんなのだろう。

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こうした生活感のある商店街の外れという景色はわたしの街では20年以上前に失われてしまった。
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