週刊ネコ通信

日記とか備忘録とか。

2019_09_02_「東洋の笑い」とハムスター

Twitterを見てると無意味に近い概念を笑う、というのが結構多くなってきた気がする。特に2コママンガみたいな形式で現れるパターンとか、単語間の意味を破壊する駄洒落に見られるパターンとかがある(具体例を挙げると本気で解説しなきゃいけなくなるので例示しないけど…)。

 

ふと思い出したのが中沢新一の「チベットモーツァルト」の一節である。急に笑い出した禅僧に「東洋の笑い」を見出す話である。

静かな住居を見つけて、飾らぬ心をたのしみ、年中、客を送ることも迎えることもない。あるときは、孤峰頂上にのぼって、雲のうちから顔をだす月に大笑いする。(『祖堂集』)

 薬山のはじけるように明晰な笑いは、ふつう考えられているユーモラスな笑いとはちがう。その笑いは意味に反作用するものでも、無意味にたいしてむけられたものでもない。雲間が晴れ、そこから月が顔を出したということ自体にはなんの表象性も含まれていないし、また表象性がないという事実の「無意味」さを笑うほど、禅者はひねくれていない。薬山和尚が笑っているのはもっと別のことだ。この禅僧は、月が雲間から顔を出すことによって、連続のプロセスに句点が打たれたこと、連続体に切断がとびこんできたこと、ただそれだけのことに身体を揺らせて笑っている。ここにあるような「東洋の笑い」は、空とか無とか無限とか呼ばれているもののほうにたしかに方向づけられているけれど、けっして空や無や無限それじたいから笑いが生じてくるなどということはありえない。空を横切る光がそこに溝や痕跡を刻みこんだとき、無の連続体から「起源における粒子」とも言うべきモナドがとびだしてきたとき、そして無限の多様体に位相的ねじれを加える「点」があらわれたとき、それを無邪気に笑う笑いなのだ。クリステヴァの言う「別の笑い」とは、それゆえ、原エクリチュールの場、意味の構築性の立ち上がるパラドキシカルな起源の場ではじけとぶ、それじたいきわめてパラドキシカルな笑いなのである。

中沢新一チベットモーツァルト講談社学術文庫, pp.62-63)

その後、論旨は上記の感覚は乳児時代から原始的に備わっているということに対する裏付けに進むが要旨はこんな感じ(ひらがなが多いのは中沢の文体なので念のため)。

 

わたしも無意味性を笑うほど寒いことは無いと思っている。インターネットにはそういう人結構いるけど…

拡大解釈すると、句点を変な位置にあえて置く、のが例えば駄洒落の生成だと言い換えることができる。意味を意図的に取り出すことと、無意味にランダムに単語を接続することは、過程において全く異なる行為である。まあ結果的になんか面白くなっちゃってれば関係ないのかもしれないけど、カットして盛り付けして食卓に出すのと、わけのわからないまま既存の概念を(若干の嘲笑も込めて)皿に並べて無造作に放り投げるのはやはり違う。

さらに考えを押し進めると、膨大な楽曲の海の中から完璧に曲をセレクトされると尊敬の念より先に笑いが込み上げてくる感覚にも通じると思う。何とも不思議だが、延々と広がる現実を適切に切断されると面白くなっちゃうのは(こうした感覚を持てていることは)とても幸せなことだと感じる。

そこには解釈が存在する。松屋USENから流れる曲の巡り合わせに何かを受信する人もいれば、それができない人もいる。

 

また「チベットモーツァルト」では、ジュリア・クリステヴァの作品を批評する文脈で次のようなことも書かれている。これ、「駄洒落を生成する前からすでにその恣意的な視点が面白い」という感覚とも一致する(クリステヴァ読んだことないけど…)。

「われわれは意味を笑うのでも無意味を笑うのでもない、われわれが笑うのは意味の構築性であり、ひとが言葉を語ることを可能にしているポジションそのものを笑うのだ」

(同pp.59)

 

ハムスターの或る歌。